
西村と夕暮れの御堂筋を彼の事務所へと向かい、肩を並べて歩く。
西村と出会ってから、二人の会話はとどまることを知らない。
西村との出会いは、実は初対面ではなかった。俺が学生時代、関西学院大学サーフィン同好会「カウアイ」の会長をしているときに、一度出会っていたのだ。「カウアイ」で、チームメンバーのスタジャンを作ろうということになったとき、生産を依頼したのが西村であった。西村は俺と同年齢であるから、俺が、まだ学生の時分から、商売を始めていたということになる。当時、大阪は、サーフィンブームの熱狂の中にあり、「TAKE OFF」というサーフィンのミニコミが、サーファー間のコミュニケーションをつかさどっていた。
そのころのサーファーのバイブルといえば、石井秀明氏の「サーフィンワールド」、そして創刊当時の雑誌「POPEYE」、そこに加えて大阪では、大阪独自のサーフカルチャーに乗り遅れないために「TAKE OFF」が必須であった。
サーフチームのスタジャンを作りたいと考えた時に、それを何処に頼んで作ってもらえるかと探すために俺達は「TAKE OFF」を見た。そこに、西村の会社、「ウエスト・ビレッジ」の広告がデ〜ンと載っていたのである。当時、サーファー達の間では、自分達の波乗り仲間でサーフチームを結成して、そのチームTシャツやスタジャンをつくって着るというのが流行り始めていた。考えてみればその仕掛け人は西村である。サーフショップや一般のチームから舞い込む注文をウエスト・ビレッジは一手にひきうけていたのだ。その業態は他者によって、すぐにコピーされたが先駆者は間違いなく西村である。それだけではなく、当時、西村は関西サーファーの間ではかなり名前の知られた人物でもあった。
大阪に大きなサーフチームがあった。メンバー数170名のオリーブ・サーフ・チームである。西村は、その結成時からの幹部であり、さらにその系列の通称“オスカ”とよばれる45チーム、総勢1700人を仕切っていたのが西村であったからだ。
というわけで、我が「カウアイ」もウエスト・ビレッジでスタジャンを作ることになり、オーダーの詳細を打ち合わせに事務所を訪ねたのである。
船場の何処かの通りのビルの片隅に入っていくと、間借りした狭くて殺風景な事務所らしき場所に辿り着いた。冬だったので、円筒形の石油ストーブが一つ、コンクリートのフロアで赤く燃えていた。あとは、デスクが一つあるだけ。ルックスは、華やいだところはひとつもないのだが、空間には活力があった。なぜなら、入るなり「まいどー!!」と大きな声である。物怖じしない笑顔を童顔に浮かべて元気いっぱいの西村であった。同じぐらいの年頃のこの男を見て、俺は、「むむ、なんか、コイツかっこええな。」と思った。
いや、当時ミナミを歩けば、ムチャクチャハンサムでかっこいいローカル・サーフスターをよく見たものだが、西村に感じたカッコよさは、そういうたぐいのものではなく、おれの人生で、始めて身近に目撃した種類のものだった。それは、いったいどういうものであったのか?今、冷静に振り返り検証してみると、ある結論に達した。
いわゆる、人気者、有名人は知らず知らずの内に自分自身が偉いのだと錯覚し、人と出会う時、横柄になったり、カッコつけたり、態度に傲慢さが見え隠れするものだ。特に自分の内容が人気につろくしていない場合、その薄っぺらい内面を読み取られるのではないかという脅えが眼にあらわれて、オドオドとしたりするものだ。それを読み取られぬために、ことさら傲慢に構えたり、サングラスを愛用したりするのである。1700人ものチームのリーダー格の人間ともなれば、ある種の傲慢さを発しているのが普通だが、西村には、一切そういうものが出ていなかった。そうなると、「そんなことは、別にたいしたことでもない」と言われているようで、逆にスケールのでかさを感じてしまうものなのだ。
俺がデザインしたスタジャンは、肩のラインがカーブを描いており、普通の工場では仕事を嫌がるに違いないものであったのだが、そのデザインをなんとか形にするために、一生懸命になってくれた仕事に対する態度にも好感が持てた。
俺達もそろそろ、将来を気にする頃に差し掛かっていたので、西村のように、楽しそうな仕事を自分でバリバリとやっている姿は憧れの念を抱かざるを得なかったのである。
西村に会ったのは、それから出来上がったスタジャンを受け取りに行った時だけで、それ以来出会うことはなかった。それから時は過ぎ、俺は大学を卒業し、アメリカに2年ほど留学というか遊学し、1年半ほど就職し、退職し、また夢を追ってアメリカに行き、挫折し、帰ってきて貿易業を営み、そこからデザイナーに転進し・・・。
サーフィンブームはとっくに終わっていたが、俺はもちろんサーフィンは続けていた。しかし、何も考えず海に居れる立場では無いのは、自分がいちばんよく解っていた。
熱狂のサーフィンブームが去って5年ほどの年月が流れ、あの熱い夏の日々を送った若者達全てに次なる波、そう、人生の荒波が押し寄せていたのだ。
サーフィンなんて、一時の流行でかじっていただけの奴にとっては、話は早い。あっさりと、サーファーという衣装を脱ぎ捨てて、別の何かに鞍替えすればいいだけのことにすぎないからだ。そして、少し洒落たスーツなどを着て、小市民的な安定らしきものに腰掛けておいてから、俺らに向かって、「まだ、やってんのん?」と夢からさめやらぬ子供を見下すようなセリフを吐いていれば、それでよかったからだ。しかし、俺達は違う。青春の日々に受けたサーフィン教のイニシエーションは、魂の根幹にまでに届いていたからだ。サーフィンとは何なのか?ただ、波と言う水の斜面を滑るレジャーなのか?そのミーハー的な外面の奥には、とてつもない深遠な世界の扉が開いていたのだ。知らず知らずにその深遠な世界へとの境界を踏みこんだものは、意識のターニングポイントを迎える。そうなった以上、サーフィンは、自分の魂の中に永遠に生き続ける。サーフィンが、やめられるということは、単に、そのターニングポイントに到達していなかったというだけのことにすぎない。
しかし、ココではっきり言っておきたいのは、毎日海に入って、サーフィンが上手い奴の中にも、ターニングポイントを迎えることのできていない連中もみうけられるということだ。サーフィンの経験と技術、それと精神的発展は、ほぼ比例すると言ってもいいが、例外も大いにありうるってことである。
それは、禅と言っても、座禅にトライする人が全て禅的境地にいたるわけではないというのと全く同一である。ただ、座禅よりは、サーフィンの方が意識変革に成功する確率は高いとは思うが。
俺が西村に語る。
「俺、瞼に浮かぶ光景があるねん。それはな、ミナミのこの御堂筋をな、『かっこええやろ!』と自信満々に走って行く車をふとみると、そのリヤウインドウに誇らしげにADECTOのロゴマークが貼られているねん。もちろん、ぜんぜん知らん人が運転してるねんで。
それとかな、街角でな、ふと出くわした、かっこええ奴が普通にADECTOのTシャツを着てたりするねん。そんなシーンをいつか見てみたいなーって、思い浮かべてるねん。」
すると西村が言った。
「それなー、俺、今ゆうといたるけど、絶対、現実になるわ。」
自信が無かったわけではない。しかし、無邪気な様子で自分が見てみたい夢の光景を語る俺の言葉を眩しそうに見つめる人間はいても、ここまで、確信的な自信に満ちた言葉で肯定してくれる人間はいなかった。俺の中に、また強烈なやる気が湧き上がってきた。
そうこうするうちに、西村の事務所に着いた。
これから、紙が燃え出すのではないかと思えるぐらいに仕事に熱中することになる、そのアジトであった。
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